ここでは ブーレーズ著 現代音楽を考える を読んだ感想を書いていこうと思います。
この本は、ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会での講義をまとめた本で、ブーレーズの音楽への考え方などが書かれていて、1960年と今から60年も前のことになりますが、2019年の現在でも状況は変わっていないと言えます。
最初に著者 Pierre Boulez / ピエール・ブーレーズの作品を紹介しておきます。
ブーレーズ 現代音楽を考える 序章 自由ってなんだ?
序章 私から私へ
第一章は『私から私へ』と称し、自問自答から始まる。
この自問自答がいかにも作曲家らしい、いや芸術家全般か。
一方はセリエル音楽などの正当性を語る少し過激めなブーレーズ、また一方は、そんな彼をなだめる冷静なブーレーズが問答を繰り返していて、その険しい葛藤が見て取れるようだ。
これは作曲家なら、間違いなく同じような思考闘争の経験があると思う。
新たな地平を切り開くか、はたまた、既存の方法論を用い音楽の詩、物語を造り出すか!
現代から見ればセリエル音楽などの作品例を沢山見聴きできるが、当時はその渦の真っ只中で、まさに生死をかける戦いだったろうと思う。
規律は自由の中に求めるべきだ。。。
本の中では、ボードレールの詩や、ムッシュー・クロッシュ(ドビュッシーのペンネーム)の書いた文章などを引用し書かれていて、その中で印象に残った言葉が、
規律は自由の中に求めるべきだ。。。
ムッシュー・クロッシュ(ドビュッシーのペンネーム)
これを僕なりに解釈すると、
この広大な地球、人生の自由の中に、自分自身の規律を作り、その中で自分の生き方をしろよ、ということだろう。
自由だからといってフラフラと、そこら辺をふらついていても面白くない。
道草でも、せっかくなら何かをして遊びたい。地球は広いんだから色んな場所見てみたい、でもそのためにはお金がないとな。
何を造ってもいいけど、地元にあるものでねっていうことだ。
もし絵を描いて、顔が能面で体がキリスト、手がゴリラで足が人魚、背景はタイの市場だったら、面白いけど何がしたいの?何なの?ってなる。
本当の自由とは
規律のない自由も簡単じゃない。人は 規律があるから自由がある なんて言う。
僕たちは、色々学習してしまったから、脳が勝手に馬鹿なこと考えて自由を手に入れられない。
フリージャズにはルールはない。
だけど鍵盤をみたら押せば音が出るんだ、なんて考えてしまう。楽器見たら、楽器だって考えてしまう。
これは、岡本太郎が言った、
うまく描こうとするのは卑しい
岡本太郎
ってことだろう。
子供は純粋だが、大人になると『上手くやろう、良い所みせてやろう』なんて考えちゃう。
この考え方だと灰野敬二さんが思い浮かぶ。
練習をしない。
それはそれで難しいことなんだ。
『あの人音楽家なんて言ってるけど、楽器全然弾けないのよ』なんて言われたら練習しちゃう、そして純粋性は壊れる。
先生に教わって 『ドレミ』 なんて知ったら、もうバラバラ。
知らないってことは、純粋で稀有なことなんだ。
かといって、僕が灰野敬二さんの音楽が好きかといったら、そんなことはないのである(生き方は好き)。
周りと自分
環境に対する熱中はひとりの芸術家としての私を駄目にする。私はそれが後で自らの環境の表現になってしまうのをとても恐れているのだ。
ムッシュー・クロッシュ(ドビュッシーのペンネーム)
これは、ミュージック・セリエルの旗手というブーレーズ自身の状況への疑念だろう。
これが、本当に自分の音楽なのか!周りの状況に踊らされてるんじゃないか!?
これは、ハンター×ハンターのクラピカも言っている。(突然のハンター×ハンター) 😀
ドビュッシーの引用を見た瞬間に昔ツイッターに呟いた、クラピカが言った名言を思い出した。
今日の名言
その場の雰囲気に任せたら、まともな判断が下せなくなるぞ!
by クラピカ
— さかいよしあき Yoshiaki Sakai @ 音楽制作所 Y-Bit Music (@light_organ) December 7, 2018
そのように疑心暗鬼にとらわれるブーレーズの心境が描かれていて、すごく共感を覚えた。
やっぱ、みんな悩むんだね。
次は 第一章 一般的考察 に続きます。
ムッシュー・クロッシュ(ドビュッシーのペンネーム)の書いた本の和訳。